それは起こる|It Happens

直接、
探し求めることの
できないものごとがある。
ものごとが
貴重になればなるほど、
その中に間接的に
入って行かなければならない。

あなたは
真理が起こりうるように、
自分のまわりの状況を整える
何か別のことを
しなければならない。

真理を
探し求めていくことは
できない。

どこにいくのかね?
カブール?
クル・マナリ?
カトマンズ?
ゴア?
それから、
家に帰る…
とでも。

真理の探求者は
みなこのルートを
通って行くが、
前にもまして
バカな顔になって
家に帰ってくる。
彼らは
何も見いだしていない。

どこに真理を
探しに行くのかね?
あなたは道を知らない、
地図はない、
方角の見通しは立たない。

真理とは何で、
どこで、
いつ悟ることができるのか、
誰も知らない。

ほんとうに
真理を探し求める者は、
けっして
真理を求めない。

むしろ逆に、
真実ではないもの、
真正ではないもの、
不誠実なものを
すべてなくして、
自分をきれいにしようとする。

そして、
ハートの用意が整ったら、
純化されたら、
客がやって来る。

その客を
見つけることはできない、
客を
追い求めることはできない。

客は
あなたのもとにやって来る。
あなたはただ
準備を整えなければならない。
正しい態度でいなければならない。

私はあなたが
スピリチュアルということばから
理解するような意味で
スピリチュアルだったことは
一度もない。

私は真理を見いだすために
寺院や教会に行ったり、
教典を読んだり、
何かの修行についたり、
あるいは神を崇拝したり、
祈ったことなど一度もない。

それは
私の道ではなかった。
だから、
確かにあなたは、
私が
「スピリチュアルなことを
 何もしていなかった」
と言ってかまわない。

だが、
私にとっては、
スピリチュアリティには
まったくちがった
含みがある。

それには
正直な個性が必要だ。
どんな種類の
依存も許されない。
それは
どんな犠牲を払ってでも、
自らの自由を創造する。
けっして
群衆には組みさず、
独りだ。
群衆が何か
真理を見いだしたことは
一度もないからだ。
真理は
人びとが独りの中でのみ
見いだされてきた。

だから、
私の
スピリチュアリティには、
あなたの
スピリチュアリティという考えとは
ちがった意味がある。

私の子どもの頃の話は、
もしあなたが
それを理解できたらだが、
いずれにしてもすべて、
これらの同じ質を指し示す。

それを
スピリチュアルと
呼べる人は誰もいない。
私はスピリチュアルと呼ぶ。
それらは、
人間が熱望するものを
すべて私に与えてくれたからだ。

私の子どもの頃の
話を聞いている間は、
その中に在る、
ある質を探そうとするべきだ。
ただ話だけではなく、
細い糸のように…
私のすべての記憶を
貫いて流れている
本来の質を。

そして、
その細い糸がスピリチュアルだ。
スピリチュアルとは、
私にとっては
自分を見いだすという意味だ。

私はこのワークを
誰かほかの人に
代わってやってもらうことは
けっして許さなかった。

あなたの代わりに
誰かほかの人が
このワークをすることは
できないからだ。

そして、
直接的に
それをすることもできない。

それが起こる
ある一定の環境を
あなたは
創らなければならない。
それはハプニング…
解放、
覚醒、
悟りだ。

これらの言葉はみな
絶対的にひとつのことを
指し示している。

そして
それはハプニングだ。
それが多くの人びとの中に
恐怖を生み出す。
「もし“それ”が
 ハプニングだとしたら、
 いったい私たちは
 何をしたらいいのだろう?
 起こるときは起こるのだ」

そうではない。
“それ”はハプニングだが、
それが起こるスペースを
整えるために、
あなたは多くを
することができるのだ。

理解しない者には、
場を整えるというのは
スピリチュアルには
見えないだろう。

だが
エンライトメントが
起こったのだから…
それは
スピリチュアルにちがいない。

どのような手段を用いようとも
実質的に正しかったということは、
結果が証明する。

従ってきた道が正しかったことは、
ゴールが証明する。

Osho – The Transmission of the Lamp

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