サレンダー|Surrender
あなたは
変えてゆくこともできる…
幾多の生涯にわたって、
あなたはそれをやり、
同じことをくり返してきた。
それはとめどない
悪循環になっている。
それは車輪だ。
同じスポークが
上がって来ては下がり、
また上がって来ては下がる。
それはまわりつつける車輪であり、
あなたはその車輪のなかに
とらえられている。
目醒めなさい。
場所を変える必要はないし、
時間を変える必要はない。
外側のものは
何ひとつ変える必要がない。
外界は
これ以上は望めないほど完璧だ。
やらなければならないことは
ただひとつ…
もっと意識的になり、
もっと油断なく目を見張り、
もっと注意深く気づき、
もっとからっぽになること。
そうすれば
外界に投影するものは
何もなくなる。
内側にある種子を
すべて
焼きつくさなければならない。
内側にある青写真を
すべて
焼きつくさなければならない。
その青写真を焼き、
種子を焼き、
内側にあるものを
すべて放り出して、
ただからっぽになっていると、
彼方から何かが
あなたのなかに入ってくる。
楽園が地上に浸透してくる。
それが変容の瞬間だ。
この変化とともに、
全存在が一変してしまう。
女性も、
子どもも、
人々も、
会社も、
騒々しい街中も、
すべては元のままだが、
もはや前と同じではない。
それは
あなたがすっかり
変わってしまったからだ。
これが正しい変容の道だ…
けっして外側から
はじめてはいけない。
内側からはじめなさい。
こころというものは、
静けさの極点にまで
達しないかぎり、
動くことのできないものだ。
人が動きを起こして
その動きを忘れるようなら、
それは本来の動きではない。
それゆえに
外界の事物の
刺激を受けて動くのは
本性の欲望であり、
外界の事物の
刺激を受けずに動くのは
天の動きであると言われる。
いいかね、
天の動きに身をゆだね、
神があなたを動かすままに
させることだ。
<全一なるもの>に
明け渡しなさい。
そうでないと、
あなたは
状況に反応しつづけ、
状況はあなたとその意識に
作用しつづけるだけで、
あなた自身には
何の変化も起こらない。
相手の男や女を
変えることはできるし、
仕事を変えることはできるし、
家を変えることはできる。
ものをどんどん
変えつづけることはできるが、
本当には
何ひとつ変わっていない。
<全体>があなたを
わしづかみにし、
あなたのハートが
もはや外界の事物に
動かされなくなり、
実存の内奥の中核それを
「神」「天」「タオ」と呼んでもいい….
によって動かされるように
ならないかぎり……。
あなたが
それを動かすのではなく、
あなたが
<全一なるもの>の手にする
ただの道具となっているとき、
それこそまさに
「汝の王国は来たり、
汝のわざはなされた」
という言葉で
イエスが言わんとしていることだ。
イエスは
そのような言い方をした。
同じ真理を
ユダヤ流の表現で言い表した。
天の動きに身をゆだねよ…
これは中国の言い表し方だ。
だが、
思念が起こらないときには、
正しい思念が湧いてくる。
これは奇蹟だ…
思いが微塵(みじん)も
湧いてこないときには、
何をやっても
正しい行ないになる。
何が正しく
何が間違っているかを
判別するということではない。
マインドが静まり、
ハートが神によって
動かされるとき、
起こることは
すべて的を射ている。
正しいことをすれば
聖人になるというのではない。
あなたが聖人であれば、
あなたが為すことは
すべて正しいものになる。
正しい行為をすることで
聖人になろうと
しているのであれば、
それはひたすら自分を
抑圧してゆくことに他ならない。
間違ったことを抑圧しつづけ、
正しいふりをしつづけている。
あなたは偽善者になる。
聖人に
なろうとしてはいけない。
神にその座を
ゆずってしまいなさい。
ただからっぽになり、
明け渡して、
手放しの状態になりなさい。
神にハートの動きをゆだねれば、
あらゆるものが美しくなる。
そうなったら、
起こることはすべて正しく、
間違いが起こることはない。
つまり、
自我から生まれるものは
すべて間違っているということだ。
ボーディダルマが
「あなたは地獄に堕ちる。
あなたが行なってきたことは
うわべは崇高で、
宗教的に見えるが、
奥深くでは
自我が得意そうに
笑みを浮かべている」
と言ったのはそのためだ。
自我から生じるものは
すべてあなたを地獄へ、
苦しみのなかへと連れてゆく。
自我を落とし、
ものごとが起こるにまかせなさい…
風が吹くと樹が揺れ動き、
太陽が昇ると
鳥たちが歌いだすように。
<全体>に身を
まかせきってしまいなさい。
あなたはこの生を
独りだけで
生きているわけではない。
神があなたを通して
生きるがままにさせなさい。
そうすれば
すべてがよきものとなる。
神から生まれるものは
すべてよい。
それが真の思念だ。
ものごとが静まり、
悠然としていると、
天の活動のあらわれが
突然動きだす。
これこそ何の意図もない
動きではないだろうか?
今や個人的な
目標がないのだから、
あなたの人生には
何の目的もない。
無為にして為すとは、
まさにこれを意味する。
人が生きているのは、
神が人を通して生きることを
望んでいるからだ。
人が行為するのは、
神が人を通して
何かをしようと望むからだ。
だが、
こちらへ行こうが
あちらへ行こうが、
それは人の
あずかり知るところではない。
どんな役割が与えられても、
あなたはそれを演じつづける。
それは神の演劇であり、
脚本も監督も神がつとめている…
あなたは自分の役を
可能なかぎり完璧に演じる。
どんな役が与えられても、
あなたはそれを演じ切る。
所帯を切り盛りしているなら、
所帯を切り盛りするがいい。
商売をやっているなら、
商売をつづけるがいい。
そういったものを
変える必要はない。
ひとえに必要なのは、
自分がやり手であるという
考えを落とし、
ある目標に
到達しなければならないという
考えを落とし、
どこかに
たどり着かねばならないという
考えを落とすことだ。
どこであれ
神が望むところへ
運ばれてゆきなさい。
風に舞う
枯れ葉になりなさい…
そうすれば
すべてがよきものとなる。
そうすれば
生は至福に満ちてくる。
Osho – The Secret Of The Secrets
ぬけがらのように
すべてを明け渡す
そして
自分が自分を見つける