不死なる宇宙のゆらぎ

創造、維持、破壊という、
生まれ変わり死に変わりにより、
新しい生命が誕生し、
人間の進歩、宇宙の進化が実現できる。

死は新しい生を生きるためのプロセス。
死により新たなる生を得ることができる。

生も死も、
実は不死なる「宇宙意識」がもつ
裏面と表面にすぎない。
すべては一つから起きている
「ゆらぎ」なのだから。

つまり、
死ぬことと生きることは一つなのだ。
同様に、
病気をすることも、
健康でいることも、
健なる一つのものの表現にすぎない。

このような、
表面的には二つの相反する事象が
ゆらぎを起こしていても、
実はこれらは、
一元の絶対が具象化されたもの。
これを「不二一元論*1」という。

不二一元論において
表面にあらわれた現象はすべて
幻(マーヤー*2)である。
実体をもたないマーヤーなのだから、
それらに惑わされる必要はない。

すでにあなたは、
一元なる純粋潜在力の場を最奥にもっている。
その純粋潜在力の場とは、
あらゆる可能性の場であり、
自然治癒力の源、そして
不死で完全なる健康と至福に満ちた場である。

すでにあなたはその場にある。
だから何も
不幸や幸福、
病気や健康、
生や死など心配したり、
自分の外に求める必要はない。
そのような相対界のゆらぎの法則を知ることで、
あらゆる事柄の本質を知ることができる。

このような死生観を持つことで
つねに今この瞬間を意識的に生きることができる。
そして一つの言葉に導かれる。

 

人間の完成は死の瞬間である。
Human being completion is
the moment of death.

 

宇宙万物がゆらいでいることを認識することで、
あなたは、
ゆらぎのないレベルを体験できる。
ゆらぎのレベルに対する観察者となれる。
ゆらぎのまっただ中に在りながら、
ゆらぎのないレベルに立つことができる。

ゆらぎの法則を知ることで、
人生において、つねに
変遷し入れ替わる具象の世界を
愉しむことができる。
二元の間を、つねに
ゆらいでいる自分を
愉しませてほしい。
そのゆらぎこそが、
進化のために必要なものなのだから。

一元のみでは、ゆらぎはない。
不二一元の世界だからこそ、
ゆらぎやリズムが起こるのだ。
そして、ゆらぎの波のなかで
神のリラー(Lila/遊び)をするのが
あなたの人生なのだ。
それが神の意思(サンカルパ)である。

 

It is optimistic.
Rather than regretting the past,
nor having anxiety vision to the future,
he sees only now, the current “here”.

 
楽観的なことだ。
過去を悔やむのではなく、
未来を不安視するのでもなく、
今現在の「ここ」だけを見るのだ。

アルフレッド・アドラー

 

*1 不二一元論

 不二一元論(ふにいちげんろん, अद्वैत वेदान्त, Advaita Vedānta [アドヴァイタ・ヴェーダーンタ], Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説。

Philosophy──

 ブラフマンが「未展開の名称・形態」を展開することで、虚空から風、風から火、火から水、水から地の順番で五大が展開し、五大より身体が生じ、ブラフマンはアートマン(आत्मन् Ātman, 真我 : 意識の最も深い内側にある個の根源)としてこの身体に入る。よって、アートマンは物質的な身体とは全く異なるが、人の個我/アートマンはブラフマンと同一・不異である。

 「未展開の名称・形態」は、何とも言いあらわすことのできない未確定・未分化の状態にあるもので、物質的であり、純粋精神であるブラフマンと本質を異にするが、ブラフマンの中にあり、ブラフマンから独立した存在ではない。「未展開の名称・形態」から展開した諸現象・物質的な現象世界は、無明(むみょう, avidyā [アヴィディヤー], 無知 : 真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態)によって仮にあるように見える虚妄、真実には存在しないマーヤー*2 のようなものである。

 シャンカラの思想の中で無明が占める意味は大きいが、彼は著作の中で十分な論理的説明を行わなわず、無明とは付託(adhyāsa 増益)であり、「付託とは前に知覚された甲が、想起の形で、乙の中に顕現することである」と簡潔に定義するのみだった。

 現象界(カント哲学の中心概念。人間の主観的形式によって構成された対象からなる世界 [人間が認識をすることが可能なのは、現象界とするもののみに限られる])の万物の本体は平等であるが、高下・善悪などの様々な違いがある(差別相/しゃべつそう)。人が経験する現実では多数の個我があるように見える。人は、統覚機能などのアートマンではない諸属性をアートマンであると思い、アートマンとブラフマンは別であると考える。こうした誤りは無明によるもので、無明によって人は迷い、自分という中心主体があるのだと思う。アートマンと非アートマンを区別できないことが、輪廻から抜け出せない原因である。

 ブラフマンだけが唯一で不二の実在者であり、これが真実である。誤った付託を滅し、アートマンを正しく認識し、個我/アートマンがブラフマンと同一で、現象界が実在しないマーヤーであると悟ることで(明知)、無明は退けられる。これにより個我による縛りはなくなり、解脱(モクシャ[mokṣa]:解放、悟り、自由、放免を手に入れた状態。魂という存在にとって至福の状態)が果たされる。

 知識のみが解脱の手段であり、一切の行為は無明に基づいているため解脱の手段にはならないとして否定した。知識と行為の両方が解脱に必要であるという知行併合論を退けたが、行為は心の浄化に相対的・間接的には役立つため、明知を得るまでは実践すべきとした。

*2 マーヤー

 マーヤー( माया, Māyā, 幻, 幻影, 幻力 [人を幻惑させる力], マーヤとも)は、インド哲学では、シャンカラなどにより、現実世界がマーヤーであり、真実の世界を覆い隠しているとされる。

 アルトゥール・ショーペンハウアーも『意志と表象としての世界』にて、物自体(ものじたい, thing-in-itself : カント哲学の中心概念。≒ヌース [nous/精神], ヌーメノン [noumenon/考えられたもの])である意志の単一性・本質を覆い隠している、物自体の客体である表象における数多性(個別化の原理)の説明としてマーヤーを用いている。

 

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