師から学んだ真のバクティ
師・スワミ・ヴィヴェーカーナンダとラーマクリシュナの絆
ラーマクリシュナ
19世紀インドに現れた、至高者の化身、大聖ラーマクリシュナ。彼はドッキネッシェルという田舎町のカーリー寺院の住職として働きながら、神を求め、神への渇仰が最高潮に達したとき、ついに神の悟りを得たのでした。そしてヒンドゥー教の諸宗派のみならず、さまざまな宗教の道で神の最高の悟りを得、「すべての宗教は一つ」ということを身をもって示しました。
やがて彼のもとに、約束された弟子たちが集まり始めました。ラーマクリシュナは弟子たちを心から愛し、弟子たちの霊性の成長を心から願い、残りの人生すべてを弟子の訓練に捧げました。ラーマクリシュナの強烈な無私の愛を目の当たりにした人々の多くは、その神々しい魅力に引きつけられ、神の道に入りました。

バクティへの道
ヴィヴェーカーナンダ(ナレーンドラ)は、ラーマクリシュナの一番弟子、そして後継者であり、卓越した智慧を備えた天才的な修行者でした。彼は青年になると、神を求める思いに燃えて、さまざまな宗教的指導者たちを訪ねましたが、彼の望む答えを返してくる者はいませんでした。
あるとき、彼はラーマクリシュナに会う機会に恵まれ、初対面の場で、得意な歌を披露しました。そして歌が終わると、ラーマクリシュナは突然、ナレーンドラの手を握って、涙を流しながら、こう言いました。
あぁ、お前は本当に来るのが遅かったね。こんなに長いこと私を待たせるなんてひどい。私はお前が、人類の不幸を取り除くためにこの世に生まれてきた古代の聖者の化身であることを知っています。
Krishna
合理主義者だったナレーンドラは、ラーマクリシュナのこの言葉を、ただのきちがいの戯言とみなしました。そして、彼はラーマクリシュナに、
あなたは神を見たことがありますか?
Vivekananda
という問いをぶつけました。ラーマクリシュナは、一瞬のためらいもなく、即答しました。
はい、私はここでお前を見るように、神を見ます。実にはっきりとね。
Krishna
ナレーンドラは驚きました。初めて、神を見ることができるという人に会ったのです。そしてそのときから、彼はラーマクリシュナを師と仰ぐようになっていったのでした。

あるとき、ナレーンドラに一大事が起こりました。彼の父が、膨大な借金を残したまま急死したのです。そして彼の親戚たちが、彼の父の財産を狙って敵にまわり、彼は窮地に立たされました。収入源を得るために、来る日も来る日も仕事を探しましたが、一件も取り合ってもらえず、ナレーンドラは肉体的にも精神的にもぼろぼろになりました。
そして自暴自棄になったナレーンドラの言動から、彼の悪い噂が広まりだしました。しかし、ラーマクリシュナはその噂を聞いても、まったく疑うことなく、噂を伝えにきた信者にこう言い返しました。
黙りなさい、こいつめ!あの子が絶対にそんなことをしないことは、母がお話しくださった。これ以上言うのなら、二度と顔を見せるではない!
Krishna
それからしばらく経ったある日、相変わらず仕事を探し続けていたナレーンドラは、過労のために帰宅途中で倒れ込み、そのまま意識を失ってしまいました。そして突然、神の力によってナレーンドラの意識が引き上げられて、すべての苦悩や疑念が吹き飛び、彼の心は無限の平安と力に満たされました。
そのとき、彼は、自分が生まれてきた意味は、世俗で金を稼ぐことではなく、出家をして神を求めることだということを確信したのでした。
出家を決意したナレーンドラでしたが、その前に一度、祝福を乞いに師のもとを訪ねました。彼が師の部屋に座ると、ラーマクリシュナは法悦状態になり、ナレーンドラの手をとって、涙を流しながら歌いだしました。
語るのが怖い
Krishna
語らないのが怖い
あなたを失うことが怖くて
ナレーンドラは必死で自分の感情を抑えていましたが、もはやそれは抑え切れず、ナレーンドラもラーマクリシュナも涙でびしょぬれになりました。誰にも言わなかったナレーンドラの思いを、ラーマクリシュナはすべてご存知だったのです。そして、感動に声を詰まらせつつ、自分が生きている間は、世を捨てずに家にとどまってくれるようにと、ナレーンドラに頼んだのでした。

そして数年が過ぎ、師ラーマクリシュナは咽頭癌にかかり、もう長くはないということを知ると、ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナに、3、4日間、自由にサマーディに没入できる力がほしいと願いました。するとラーマクリシュナは、こう言って彼を叱りました。
恥を知りなさい!
Krishna
お前はそんなつまらないものを求めているのですか。お前は大きな「バンヤンの樹」となり、無数の人々がその木陰で休息するようになると、私は思っていた。それなのに、いまお前は自分だけの解脱を求めています。
ラーマクリシュナは、あらゆる衆生の中に神を見、彼らの幸せのために奉仕する道を、彼に求めたのでした。このように叱られたヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの心の偉大さを知り、激しく涙しました。
その後、彼は、ラーマクリシュナの使命を受けて西洋に渡り、世界宗教会議で、「すべての宗教は一つである」というラーマクリシュナの教えを説き、大成功を収めたのでした。彼はそれをきっかけに、アメリカ、ヨーロッパ、そしてインド中を飛び回り、ヨーガの普及と貧しい人々への奉仕に全生涯を捧げました。

そして彼は、そのような激しい活動により、わずか39歳の若さで、その嵐のような生涯を終えたのでした。晩年、彼は使命が終わりに近づくと、使命遂行のために押し殺していた、師への愛を語るようになりました。
私はもはや、ドッキネッシェルの「バンヤンの樹」の下で、ラーマクリシュナの素晴らしい言葉をうっとりと聴いていた少年に過ぎません。これが私の真の本性です。他のすべては付け足しです。
Vivekananda
今、私はふたたび彼の声を・・・私の魂を震え上がらせた、あの同じ声を聴きます。
今は、師の呼ぶ声のみが聴こえます。・・・行きます、愛する神よ、私は行きます。

すべての宗教は一つである
すべての真の道徳、宗教、修行、ヨーガ、スピリチュアリズムなどには、たった一つの方向性しか存在しない。その「たった一つ」の方向性は、二つの言葉によって表現される。それは、「自我の放棄」と「愛の完成」 である。(Sri Shavari)
自我の放棄と愛の完成
Abandonment of Ego and Completion of Love
ラーマクリシュナ
使命と目的
愛の三角形
愛は三角形で表される。三つの特徴が揃わなければ、真の愛はありえない。
- 愛は取り引きしない
- 愛は恐れない
- 愛は比べない
愛はあかしを必要としない
愛なる神は、あかしを必要としない。
あなたに、私のすべてをさしあげます。あなたから何一ついただきたいとは思いません。ほんとうに、私がわがものとよべるものは一つもないのです。──これがバクティの最高の形です。
9種のバクティ準備段階
- シュラヴァナ(聴聞)
- キールタナ(賛歌斉唱)
- スマラナ(神様を想起すること)
- パーダ・セーヴァナ(神様への奉仕)
- アルチャナ(神様への礼拝儀礼執行)
- ヴァンダナ(神様へ低頭礼拝すること)
- ダースヤ(神様への労苦提供)
- サキヤ(神様と友になること)
- アートマ・ニヴェーダナ(自我意識を放棄すること)
基本は、社会奉仕と祈りです。仏陀は言いました──「与えなさい、たとえあなたが少ししか持っていなくても」若い時は理解できなかった。しかし今、私はそれを心からして差し上げたい。たとえわずかな持分であっても、寄付をします。日々、神の御下がりプラサードをいただき、生かされていることに感謝をして、今この瞬間にすべてを捧げます。
あなたは、あなたが与えたものを得る。