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心斎(荘子)

心斎・坐忘
心のけがれをとり除き(心斎)、いながらにしてすべてを忘れる(坐忘)

 心斎とは、人間の感覚、意識を払拭して身体に宿る霊気によって、万有の根本理法と一体になること。つまり、一切の分別や執着や判断を捨て去り、虚心坦懐*にして道(タオ)と一体となる。(『荘子』人間世)

 坐忘とは、人間が現世に生きているうえの諸条件(身体、五感)をすっかり忘れ去り、宇宙や自然のはたらきに身をまかせて存在の根本理法──無為自然の道(タオ)と一体となること。心の物忌みで汚れを取り去り清く生きることが求められる。(『荘子』大宗師)

*荘子における本質と向き合う精神の在り方:氣で聴く→虚

 志を一つにせよ。声を聴くのに耳ではなく心をもってせよ。そして、心ではなく氣をもってせよ。耳は聴くに留まり、心は知るに留まる。氣はすべてのものを受け入れることができる。雑念がないがゆえにすべての本質は虚にのみ集まる。無心でいるがゆえに、心斎といえるのだ。(『荘子』人間世 第四)

 一若志,無聽之以耳而聽之以心,無聽之以心而聽之以氣。聽止於耳、心止於符。氣也者、虚而待物者也。唯道集虚。虚者、心齋也。

 

*

 

 回心は神秘的生体験への入り口に過ぎない。これを終わりまで追求しようとする人は、長い浄化の段階、すなわちキリスト教徒のいう「浄めの道」を通らなければならない。荘子はこれを「心斎」とよび、祭りによる斎戒、すなわち祭りに先立つ儀式としての物忌み、と対比させている。

 同じように、回教の神秘主義者は、肉体の外面的な禊の儀式に対して、魂の浄化を対立させている。シブリの言うところによると、ある日かれがモスクに行くために、いましも禊をすませたばかりのとき、かれを責める声がきこえた。「おまえは自分の外側を洗ったが、おまえの内部の清浄さはどこにあるのか」と。この心斎について荘子は次のように定義する。

 

 おまえの注意を一つにせよ。耳で聴かずに、心で聴け。心で聴かずに「氣」(霊)で聴け。きこえるものがおまえの耳を通り過ぎないように、おまえの心が専一になるようにせよ。そうすれば、「氣」(霊)は「虚」となり、実在を把えるであろう。「道集」、すなわち道(タオ)との合一は「虚」によってのみ得られる。この虚が、すなわち心斎である。

 

 これは、神秘主義者における浄化ということ、すなわち外物の放棄と、それからの超脱、そして外物の影響から全く解放されて「虚」になった霊(精神・アーム)が実在を把え、絶対者と無媒介な直接の冥合に入るように、心を純化し、統一し、集中するということ、を見事に要約したものである。

 そして不思議なことに、道家がその状態を記述しようとした「虚」という表現は、かれら独自のものではない。スーフィ教徒は同じように、「神は人の心を空虚にして、神自身の認識を受けさせる。それゆえに、直観的なこの神の認識は、心のなかに神の純粋性を拡げてゆく」と言っている。教義的には異なった説明のなかに、同じ心理的体験が認められているのである。(アンリ・マスペロ『道教』)

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