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意志と表象としての世界

 『意志と表象としての世界(独: Die Welt als Wille und Vorstellung)』は、ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの主脳たる著書。1819年に公刊、1844年に続編を刊行。彼の道徳に関する理想は、解脱、すなわち我欲滅盡の一語に尽きる。

根拠律の四つの根について──

  1. 先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律/Principle of sufficient reason)」
  2. 原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」
  3. 概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」
  4. 行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」

 世界は、主観によって制約された客観としてはワタシの表象である。しかしそればかりでなく、世界はワタシの意志である。私たち自身は、表象においては身体の動作として知られているが、そのものが自己意識においては生きんとする意志 (Wille zum Leben) として知られる。いわば身体は表象において表現されたところの意志である。ここで独我論を避けるには、自己から類推 (analogie) して、世界の他の本質も意志とみなすべきである。

 

あらゆる表象、すなわちあらゆる客観は現象である。しかしひとり意志のみは物自体*1である。

アルトゥール・ショーペンハウアー

*1 物自体(ものじたい, thing-in-itself : カント哲学の中心概念。≒ヌース [nous/精神], ヌーメノン [noumenon/考えられたもの])

 こうして把握された意志は盲目であって、最終の目標を有してはおらず、その努力に完成はない。そのような意志においては、障害を克服して得られた満足は一時的であって、しかも無為は退屈にすぎないのであり、あくまでも積極的なのは欠乏である。

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 彼はイデア (独: Idee, 希: ιδέα, 英: idea/イデア論:プラトンの学説;本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界とはあくまでイデアの《似像》にすぎない) について、表象において範型として表現された意志であると位置づけている。イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむものであることから、概念は死んでいるのに対し、イデアは生きている。

 このイデアは段階的に表現されるものであり、これにあたるのは、無機界では自然力、有機界では動植物の種族、部分的には人間の個性である。存在を求める闘争において、勝利したイデアは、その占拠した物質が別のイデアに奪取されるまでは、おのれ自身を個体として表現するものとされる。個体は変遷するものであるが、イデアはあくまでも不変である。

 矛盾が支配している未完成な現実の世界に対しては、完成したイデアの世界には調和がある。そこでイデアの世界において芸術に沈潜した人は、意志なき、苦痛なき喜びを、少なくとも一時的には得るであろうといわれる。イデアはヌーソロジー(Noosology/半田広宣氏が提唱する宇宙論・思想体系)にもつながる重要な概念。

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 生きようとする意志は、おのれを自由に肯定したり、自由に否定する。意志が肯定されたとき、この世界で「ある」ものが生ずる。意志が否定されたとき、この世界で「ない」ものについては──最終的には哲学者は沈黙する他ない。

 この知に達して、「マーヤー」のヴェールを切断して、自他の区別(個体化の原理)を捨てた者は、同情 (Mitleid) ないし同苦(Mitleid)の段階に達する。このとき自由なもの(物自体)としての意志は、自発的に再生を絶つのであり、ショーペンハウアーの聖者は、利己心・種族繁殖の否定に徹し、清貧・純潔・粗食に甘んじ、個体の死とともに解脱するとされる。

 抽象的知性は格律を与えることによって、その人間の行為を首尾一貫させるものではあっても、首尾一貫した悪人も存在しうるのであり、あくまでも意志の転換を成し遂げるのは、「汝はそれなり」という「直覚的な知」のみである。

 意志の無への転換──意志の完全なる消失は、意志に満たされている者にとっては無であるも、すでにこれを否定し、意志を転換し終えている者にとっては、これほどに現実的なわれわれの世界が、そのあらゆる太陽、銀河をふくめて無であるとし、これらのことが仏教徒における般若波羅蜜多(慧, Prajñā [プラジュニャー])──「一切の認識を超えた世界」である。

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 意志本位の思想は、インド哲学(仏教の心、ヴェーダの慾)やギリシャ哲学(エンぺドクレスの愛と憎しみ)などにもあるが、彼の意志説は直接の意識から出て、現象の世界と相対したもので、動かし難い強みを持っている。

 彼自身の出発点としているカント哲学の徹底的な熟知が本書理解の前提となっていて、彼は認識論の上でカントを継承しており、カントを簡明にし、明快にその観念主義を発揚している。世界を現象として観じ、「直観の方式である時間と空間、理解の方式である因果、これらを認識に応用して生ずる根拠の原理」を現象世界の避くべからざる制約として、これと「物自体」とを峻別した事は、その哲学の根本であり、また最大特徴といえる。

 観念の顕照として彼が見た世界は、プラトンの理想から出たもので、彼の意志形而上論の光明であり、終局目的観に近接した理想的な見方である。プラトン並びにヴェーダへの造詣、およびヴェーダへの言及として、ウパニシャッドを構成する個々の言説一つひとつが彼の思想から結論として導き出される。

 

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