空っぽになれば、あなたは満たされる
無為にして為すとは、
まさにこれを意味する。
最も深い秘密は、
いついかなるときも、
欠かすことのできないものである。
これはこころを洗い、
思念を清めることであり、
沐浴である。
呂祖は、
これを「沐浴」と呼ぶと言っている──
神があなたの上に振り注ぎ、
あなたは清められ、
きれいに浄化される。
神が一面にあふれかえり、
あなたは跡形もなく消え失せ、
無意識の片隅にすら痕跡は残っていない。
神は至るところにみなぎり、
あなたをくまなく満たしている。
神は光であり、
神があなたをくまなく満たすとき、
それは「光明」と呼ばれる。
あなたは光に満ちあふれる。
それは無極に始まり、
再び無極へと帰る。
今やあなたはわが家に帰り着いている。
今やあなたは生まれる前と同じように、
天地がはじまる前と同じように、
再びひとつになっている。
禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる。
本来の顔はひとつであり、
無二であり、
男でもなければ女でもなく、
<陽>でもなければ<陰>でもない。
誕生するやいなや、
この形ある世界に生まれ落ちるやいなや、
あなたは二つになる。
瞑想に入ってゆくと、
再び深い沈黙が降りてくる。
突然、<二>が消え失せる。
あなたは再び<ひとつ>になる。
始めにあなたは両極を超えていた。
終わりにあなたは再び両極を越える。
ただその二つのあいだでのみ、
あなたは分断されている。
そのはざまに世界がある。
始めに神があり、
終わりに神がある。
源が目的地だ。
源に舞いもどってもいいし、
目的地に消え去ってもいい。
言い方は違うが、
それらは同じことを指している。
仏陀は意識を創出する無常なるものを
宗教の根本的な真理として語る。
生命と人間の本性を完成させる仕事のすべてが
「虚空を生み出す」という言葉に含まれている。
そもそも宗教というものは
“虚空を生み出す”という
単純な現象に帰することができる。
からっぽになれば、
あなたは満たされる。
いっぱいなら、
あなたはうつろなままだ。
あなたが完全にいなくなれば、
彼方なるものの存在が浸透してくる。
自分自身を押しとどめ、
自分にこだわりつづけるなら、
あなたはうつろなままであり、
ただの影、鏡像にすぎず、
現実のものではない。
すべての宗教は、
死から出て生に入るための
霊的な仙薬を見いだすという点では
目的を同じくする。
完全にからっぽになるという秘法──
これこそあらゆる宗教が
探し求めてきた仙薬だ。
それを飲めば不死になる。
なぜなら、
死ぬ者は存在せず、
あなたはすでに消え去っているからだ。
もはや死は起こりえない。
あなたはすでに死んでしまった!
自我として死んだ者は
永遠の生命を得ている。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
自我がもはやなくなり、
あなたがからっぽになり、
沈黙が内側に降りてくるとき、
あなたはどのように生きるだろう?
あなたは永遠に目的をもたずに生きてゆく。
薔薇のしげみが花を咲かせるとき、
そこにどんな目的があるだろう?
朝になって鳥が歌いはじめるとき、
そこにどんな目的があるだろう?
太陽が昇るとき、
そこにどんな目的があるだろう?
いったいこの<存在>には
どんな目的があると言うのだろう?
この<存在>は
ビジネスではないから目的はない。
それはまったき喜びであり、
遊び心に満ち、
ヒンドゥー教徒は
それを「リーラ」と呼んでいる。
それはまさにエネルギーの喜びだ。
そこにエネルギーがあって、
エネルギーが舞い踊り、歓喜している。
エネルギーがあるとき、
あなたはそのエネルギーを楽しむ。
あなたは走り、歌い、踊り、泳ぎ、遊ぶ。
エネルギーは表現に喜びを見いだす。
あなたは創造的になる──
純粋なエネルギーに駆られて、
絵を描き、詩を書き、音楽をつくる。
<存在>はエネルギーであり、
エネルギーは何の理由もなく
舞い踊ることを欲する。
踊りのための踊り、
絵のための絵、
恋のための恋……
在るために在ることを。
Osho – The Secrets Of Secrets