赦しとは何か──想念はその源を離れない。

 ACIMではもっぱら、「兄弟を赦しなさい。他人が自分にしたことを赦しなさい。すべての人々を例外なく赦しなさい」と勧めているから、もちろん、私たちの対人関係が、最も有意義かつ重要な学びの教室となる。というのも、私たちの無意識の罪悪感は、ほとんど常に人々の上に投影されるし、特に、自分の人生において重要な位置を占める人々の上に投影されるからだ。しかし、赦しには、もう一つの見方がある。それはさらに包括的な見方である。

 ワークブックの初めの方のレッスンでは、対象物をそれまでとは非常に違った見方で眺めることを教えている。あるレッスンでは、私たちは、ゴミ箱や、コート掛けや、自分の手などを見るようにと指示される。換言すれば、そこで対象とされているのは、(手のことは別として)私たちが無生物だと思っている様々な物体。すなわち、この世界において、人間、動物、植物などの「生きているもの」と対照をなす、「生きていない」と考えられているもの。

 これは「投影とは何か」を理解すればよくわかることだが、私たちの心の外側には、文字通り何も実在しない。その理由は「想念はその源を離れない」[W-pI.132.5:3]から。存在する唯一の問題は、心の中の「罪悪感を選ぶという決断」だけであり、この決断は抽象的で、具体性のないもの。それは、愛や赦しや贖罪が抽象的で非具体的な想念であるのと同様。そして、心の中の想念は、私たちがそれらを外に投影したときにのみ、具体的なものとなる。

 唯一の問題がその決断だとすれば、罪悪感がどんなものの上に投影されても同じこと。それが、人間であれ、ペットであれ、トースターや自動車やコンピューターであれ、あるいは何らかの食べ物であれ、違いはない。問題は、決して外側にはなく、自分の内側に存在するということ。だからこそ、テキスト第21章の中に、このコースを学ぶ人々の大半が良く知っている「世界を変えようとするのはやめなさい。そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい」[T-21.in.1:7]という文があるのだ。

 問題は、決して私たちの外側にはない。その理由は、想念がその源を離れることがないから。ワークブックの中には、「この概念は、このコースの最も中心的な概念の一つである」と述べている一節がある。想念はその源を離れないということを理解しなければ、このコースが教えていることは何一つ理解できない。なぜなら、この概念が言わんとしているのは、問題は決して外側にはない、ということだからだ。問題は、心が自我を選ぶ決断をしているということ。それが問題なのだ。だからこそ、ワークブックのレッスン79〜80が、「問題は一つしかなくて、それは分離を信じる信念である。解決も一つしかなくて、それは贖罪である」ということを言っているのである。

 よって、私たちが何の上に投影するかは問題ではない。私たちの贖罪の道にとっては、そしてまたその道における私たちの進歩にとっては、日々の生活の中で、自分の心が人々に対してだけでなく、物体に対しても抱く、不親切で愛のない批判的な想念を観察していくことが、等しく大切なのである。

  

  

 もし、ある朝、自分の車のエンジンがかからず、車に対して怒りをおぼえるとしたら、それは、赦そうとしない思いであり、誰かが車のライトを消し忘れてエンジンがかからなくなった時にその人に対して怒る場合と同様に、そうした赦さない思いは自らの霊的成長の弊害になる、ということ。

 またもし、自分のコンピューターが故障して動かなくなり、コンピューターに対して怒るとしたら、私たちはそのとき、「自分が心安らかでない理由は、自分のコンピューターがまた動かなくなったせいだ」と言っていることになるが、これが、コースで言う「嘘」というもの。これこそが、まさに、コースが私たちに信じないようにと言っている「自我の嘘」の紛れもない一例である。

 私が憤慨している本当の理由は、「私のコンピューターが動かなくなったその時、机に座っていた私は、自分と一緒にいてくれるようにとイエスを招かなかったから」ということになる。もし、招いていれば、そして彼の愛を自分の傍らに感じていたならば、コンピューターが動かなくなったとき、私は、とにかくそれが再び作動するように、何でも必要なことをしようとしたはずだ。その時、私は苛立つことはなかったでしょうし、怒ることも、むしゃくしゃすることもなかったでしょう。「どうして私には、こんなやっかいなことばかり起こるのだろう」とも思わなかったでしょう。

 もし朝食時にトースターの誤動作によりパンがこげてしまったとしても、私はトースターに対して腹を立てないはずだ。あるいは、高速道路が混んでいて、自分が非常に重要な約束に遅れそうだとしても、イライラすることはないでしょう。苛立つことで、私が約束の場所に少しでも早く到着できるようになるわけではない。もし他の車が自分の車線に割り込んできても、私はその車に対して憤慨することはないでしょう。

 したがって、私たちが人を対象としている時でも、物体を対象としている時でも、何ら違いもないと見なすべきなのだ。私たちの赦しのレッスンは、できるかぎり普遍化されたものとなるべきで、外側の世界の一切を含むものにならなくてはならない。生物か無生物かに関わりなく、自分に影響を与えると自分が信じているもの、すなわち、自分を幸せにしたり、安らかな気持ちにしたり、怒らせたり、苦痛をもたらしたり、快楽をもたらしたりすると自ら信じているものの一切を、赦しのレッスンの対象に含める、ということ。想念はその源を離れないのだから。

 唯一の問題は、分離の想念、つまり私たちの心が選択した罪悪感の想念であり、その想念自体が問題なのだ。それが投影されたものや、投影の受け皿となったものが問題なのではない。

 以上のような、赦しについての広い見方は、コースの形而上学的原理についての私たちの理解の幅を真に広げるだけでなく、それらの原理をどのようして日常生活に適用するかについても、理解の幅を広げてくれる。そして、このことは、私たちが自らの贖罪の道を前進する速度を本当に速めてくれて、私たちをより早く家まで連れ帰ってくれるのである。

(参考:Expanding our understanding of forgiveness)

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