立ち上がれ目覚めよ|Arise Awake ②

 

師・スワミ・ヴィヴェーカーナンダの言葉 â‘¡

神と宗教

 アジアの声は昔から宗教の声である。ヨーロッパの声は政治の声である。

 君たちは神を探しにどこへ行こうとしているのか?あらゆる貧しい人、不幸な人びと、弱い人びとは神ではないのか!なぜ最初に彼らを拝まないのだ!なぜガンガーの岸辺に井戸を掘りに行くのか。

 インドは、もし彼女が神の探求をつづけるなら、不死である。

 この宗教は、われわれインド人がヨーガ、すなわち合一と呼ぶものによって成就される。労働者にとって、それは自分たちと人類全体の合一であり、神秘主義者にとっては自己の低俗な部分と崇高な部分の合一であり、哲学者にとってはあらゆる存在の合一である。これが、ヨーガが意味しているものなのだ。

 この利他の精神は、宗教の判断基準である。利他の精神が勝っている人は、よりスピリチュアルであり、よりシヴァに近い。そしてもし人が利己的であるなら、どんなに多くの寺院を見ても、どんなに多くの巡礼地を訪れても、そして額に豹のような模様を塗っていても、彼はシヴァから遠く離れているのだ。

 すべてのものを神として礼拝せよ。形あるものはすべて神の寺院である。その他はすべて妄想だ。常に内面を見つめ、決して外側のことに目を奪われるな。神とはヴェーダーンタに説かれているようなものであり、神を礼拝するということもそうである。

 すべての魂は潜在的には神聖である。目標は、内外の自然を制御して内なる神性を現すことである。このことを働き、礼拝、心の統御、または哲学によって──これらの一つ、二つ以上、または全部によって──なし、自由になれ。これが宗教の全部である。教義とか信条とか儀式とか書物、寺院等々は第二義的な些末事だ。

すべての宗教の理想はひとつ、自由を得る事と、不幸が無くなる事である。

 もし主が慈悲深いお方でないのなら、海には一滴の水もないだろうし、深い森に一本の小枝もないだろうし、富の神の家にひとかけらのパンくずもないだろう。かれがそう思召せば、砂漠に水は流れるだろうし、乞食は山ほど持つだろう。かれは一羽のスズメの落ちるのもご覧になる。これらは単なる言葉であるか、それとも文字通りの事実であるか?

 もし神が存在するなら、彼を見なければならない。もし魂があるのなら、それを知覚しなければならない。それをしないなら信じないほうがましだ。偽善者であるより率直な無神論者であるほうがよい。

 恐怖があってはならない。もの乞いはいけない。要求である。最高者に要求せよ。母の本当の信者は鉄石のように堅く、ライオンのように恐れを知らない。彼らは、たとえ全宇宙がかれの足もとで突然こなごなに砕けても、いささかもあわてないのだ!彼女をして、君に耳を傾けさせよ。いささかでも母へのへつらいがあってはならぬ!おぼえていたまえ、彼女は全能なのだ。石からでも英雄たちをつくることができるのだ!

私が説くのは愛、愛だけであり、私の教えは、宇宙の本質の同一性と普遍性を説いている偉大なヴェーダーンタの真理に基づいている。

 私は、ヒンドゥーの社会を改善するのに宗教の破壊は必要ではない、社会の現状は宗教のためにこうなったのではなく、宗教があるべき形で社会に適用されなかったためにこうなったのである、と主張する。

 私は、政治または社会の進歩は不要だなどと言っているのではない。私が言おうとしていること、そして君たちに心にとめておいて貰いたいと思っていることは、ここではそれらは二義的なもの、一番たいせつなのは宗教だ、ということである。

 私は過去のあらゆる宗教を受け入れ、それらすべての宗教とともに神を礼拝する。それらがどのような形の神を礼拝していようと、あらゆる宗教といっしょになって神を礼拝する。私はイスラーム教のモスクにも行くし、キリスト教の教会へも入って十字架の前にひざまずく。仏教の寺院に入っては、ブッダと仏道に帰依する。森の中ではあらゆる人の心を啓発する光を見ようと試みているヒンドゥー教徒とともに瞑想をする。

 実在する唯一の神、私の信じる唯一の神──いっさいの霊魂の総計──を礼拝できるよう、私を幾たびも生まれ変わらせ、私に幾千の不幸をなめさせたまえ。何にもまして、あらゆる人類、種族の中におわす私の聖なる悪人、私の聖なる不幸な人、私の神なる貧しい人が、私の礼拝の特別な対象なのだ。

 主は、生の中にも死の中にも、幸福の中にも不幸の中にも平等に存在しておられる。全世界は主で満たされているのだ。目を開き、主を見よ。

宗教はほんとうになにかを成就できるのか?
──できる。それは人びとに永遠の生命をもたらす。それは人間をあるべき存在にし、動物的人間を神にする。

 宗教とは教理や教義にはなく、知的な議論にもない。宗教とは、在ることであり、成ることであり、悟ることである。宗教は形而上世界の真理を扱う、ちょうど化学その他の自然科学が自然界の真理をとり扱うように。

 宗教は真剣な自己犠牲を伴う。自分自身のためには何ひとつ望むな。あらゆることを他者のために行え。それは、自分という存在を愛し、動かして神の中に置くことである。

 神を礼拝することで、われわれはいつもわれわれ自身の隠れた真我を礼拝してきたのだ。

 人格の形成に、善い偉大なあらゆるものをつくるために、また他者および自分に平安をもたらすために、宗教は最高の動機力であり、したがってその立場に立って学ばれるべきだ。宗教の、せまい、限られた、闘争的な思想は、すべて、無くならなければならないのだ。宗教ではすべての宗派的観念および部族または民族の観念は、捨てられなければならない。それぞれの部族または民族が自分の神を持ち、他の神はどれも悪い、と考えるのは迷信である。「それはもう過去のもの、そのような考えは、すべて、捨てられなければならない」

 人間社会から宗教を取り去ったら何が残るか。ケモノたちの森だけである。感覚の幸福は人間の目標ではない。智慧(ギャーナ)が、すべての生命の目標である。

 人生に厳しい打撃を受け、この世の一切物に失望した時にはじめて、われわれはもっと高い何ものかを欲する。その時に神を探し求めるのだ。

人類の究極目標、すべての宗教の目的はたったひとつ──神との、つまり各人の本性であるところの神性との、再結合である。

 世界中にあるさまざまな宗教は、それぞれが行っている礼拝の形式に違いはあるが、本当はひとつなのだ。世俗の仕事というものはない。すべての仕事は宗教であり礼拝である。

 つまり、

 宇宙意識の合一:あなたが自分自神に目覚め、自らの内的世界を統合する:意識とエネルギー(シヴァとシャクティ/あなたの内なる男性性と女性性)の融合・統合──集合的無意識の上昇──ワンネスへ

 

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